怒りの塊と背中の痛みが導くスピリチュアルから目覚めまで

スピリチュアル目覚め 桜

Sachi です♪

スピリチュアルの世界に入る前まで、私を支えてくれたものは「怒り」でした。

 

なんで「怒り」が支えになるのか 不思議に思います?

 

それは、子供の頃の出来事から 私が立ち上がるために、自分を肯定するために、そのために「怒り」「憎しみ」のパワーが必要だったんですね。

 

「愛」が得られないと分かった時、エゴは私を生かすために、代替え品を探して 何かにたどり着くのですが・・・私の場合は「怒り」だった。

 

エゴについてよく書いていますが、エゴは別に悪いもの、あってはいけないものでもなかったですよね。エゴは私と言う人間を生かすために働いてくれるものでもあります。

 

なので万が一、私と言う人間が死んでしまっては、エゴも死ぬと言うことを意味するためエゴにとっては一大事!! なんとしてでもこの人間に生き抜いてもらわねばならない!!わけです。

 

そして、子供を捨ててしまうような女なんかクソだ!!あんなクソ女に負けるな!!アイツと私は全然 違う!!あんな生き方は絶対しない!アイツが居なくても生きて行ってやる、負けるもんか、負けるもんか!! と、怒りで自らを奮い立たせたんですね。

 

そうやって立ち上がり、尚且つ成長とともに怒りの上塗りをしたため、怒りはますます大きな塊になっていくわけです。

 

なので私の内側は、常に怒っていました。

 

スポンサーリンク

背中の痛み

けれど当時の私がそのことに気づくわけもなく・・・・ですが身体は嘘をつかないので、そんな大きな怒りの塊があるため、いつも背中にひどい痛みがありました。

 

痛くて痛くて、息苦しくなるほど痛くなることも頻繁にありました。 そんな時は、痛いところを押して(指圧)もらうと楽になるのですが、また何日かすれば痛くなります。

 

あまりにも怒りが強く出て一時期、過呼吸になったこともありました(笑)

 

それほど抑圧してしまった感情は、どれだけ時が経っても消えてしまうことはなく、しっかりと内側に存在し続けているんですね。

 

私がそれらに気づいてあげて、長い間 押し殺し閉じ込めてしまって ごめんね。と、それらと和解するまでは 勝手に消えてはいかないんです。

 

「怒り」はなぜ生まれたのか?

 

「怒り」が生まれる前・・・怒りに変わる前・・・それは

 

「愛」が欲しかったわけです。

 

でも欲しがったその「愛」と言うのは、 形の見える「愛」だったんですね。

 

形の見える「愛」が 愛だと思っているのが人間なんです。

 

だから得られない!!と判断してしまい、「怒り」が生まれます。

 

でも人が本当に欲しがっている「愛」とは、形のない観えない方の「愛」です。

 

だけど人間と言うのは いつまでたっても、そこに気づけずにいます。

 

 

形のない観えない「愛」

 

それは誰もがすでに持っていた。

 

持っていない人はいない。

 

最初から私の中に在った。

 

ずっと在った。

 

私が嘆き悲しんでいるときも、それは在った。

 

私の中が怒りでいっぱいのときでさえ、それは在った。

 

ずっと在った。

 

最初から、ずっと在った。

 

持っていた。

 

誰かにもらうものではなかった。

 

 

そのことへの気づき

 

それを人は、目覚めと言うのだと思います。

 

 

読んで頂きありがとうございます

 

スポンサーリンク

 

 

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

ピックアップ記事

桜綺麗丸山公園枝垂れ

2016.4.7

桜が綺麗に咲いているのはどこ?丸山公園VS京都植物園の枝垂れ桜☆カメラ散歩

Sachi です♪ 桜が綺麗に咲いているのはどこ?京都インクライン~哲学の道にサスペンス定番スポット☆カメラ散歩 の続きです。 …

おすすめ記事

ページ上部へ戻る