怒りの塊と背中の痛みが導くスピリチュアルから目覚めまで

Sachi です♪

スピリチュアルの世界に入る前まで、私を支えてくれたものは「怒り」でした。

 

え?(・ω・) なんで「怒り」が支えになるか 不思議ですよね?

 

それは、子供の頃の出来事から(トラウマを克服する方法は?姿を変えたモノを見つけると過去も変化する[親子関係]) 私が立ち上がるために、自分を肯定するために、そして生き抜くためには「怒り」「憎しみ」のパワーが必要だったんですね。

 

母親の「愛」が得られないと分かった時、エゴは私を生かすために、代替え品を探して 何かにたどり着くんですね・・・私の場合はそれが「怒り」だったということなんです。

 

エゴについてよく書いていますが、エゴは別に悪いもの、あってはいけないものでもなかったですよね。 まあ、なくならないしね。。

 

エゴは私と言う人間を生かすために働いてくれるものでもありました。

 

なので万が一、私と言う人間が死んでしまっては、エゴも死ぬと言うことを意味するため エゴにとっては一大事!!

 

なんとしてでも この人間に生き抜いてもらわねばならない!!わけです(^^;)

 

そのためエゴは、子供を捨ててしまうような女なんかクソだ!!

あんなクソ女に負けるな!!

アイツと私は全然 違う!!

あんな生き方は絶対しない!!

アイツが居なくても生きてやる!!

負けるもんか、負けるもんか!! という感じで、子供ではあっても 【怒り】で自らを奮い立たせ、それをエネルギーにして生きるようにしてくれたわけです。

 

でも怒りをエネルギーに生きてしまうと、成長する過程もすべて【怒り】が必要になってきます。なんせエネルギー源ですから。すると【怒り】はますます大きな塊になっていくんですよね。

 

なので私の内側は、常に怒っていました。

 

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背中の痛み

けれど当時の私が 自分に起こっている本当のことに気づくわけもありません。

 

でも身体は嘘をつかない、そんな怒りの塊があるのだから 背中はしょっちゅう痛かった。

 

もうほんとに痛くて痛くて、息苦しくなることなんて頻繁にありました。

 

そんな時は、痛いところを グッ~と押して(指圧)もらうと、息をするのもやっと楽になるのですが、また何日かすれば痛くなります。

 

あまりにも【怒り】が強く出ていた一時期は、過呼吸になったこともありましたn(>_<)

 

それほど抑圧してしまった感情というのは、どれだけ時間が経っても 勝手に消えてしまうことはないんです。自分で気づいていなくても、しっかりと内側に存在し続けているんです。

 

私が気づかないことには終わらないんです。長い間 押し殺し、閉じ込めてしまって ごめんね、苦しかったねと、その怒りと和解するまでは 勝手に消えていかないんです。

「怒り」はなぜ生まれたのか?

その「怒り」が生まれる前・・・怒りに変わる前・・・は何が起きていたかというと、

 

ただ「愛」が欲しかったわけですね。

 

この場合の「愛」というのは、 形の見える「愛」です。ワンネスという意味の愛ではなくて、親の愛が欲しかったわけですね。

 

親が子供を愛しているなら、普通こうするでしょ?とかっていう類いの、愛です。 なのでどこまで言っても人間の枠の中の愛です。どこかに条件をつけているそんな愛です。

 

でもその当時は、そんな形の見える「愛」が ほんとうの「愛」だと思っていたし、それが一番欲しかったんですね。 

 

けれど、それが手に入らないから、激怒した。手に入らないのだと絶望し、それならもういらない!と、すねた結果の【怒り】だったということです。

 

形のない観えない方の「愛」には気づかずに

形のある 愛が 得られない!!と激怒し絶望して「怒り」が生まれました。

 

けれど

形のない観えない「愛」の方は、どこにあるんでしょうか?

 

それは・・・私の目の前にいつもあったんです!

 

目の前であり、私を包むすべてがそうでした。

 

包まれていないものは何一つなかったんですね。

 

なので包まれていた・・・というより、ずっとその中にいたんです。

 

そして私だけでなく、誰もがすでにその中にいます。

 

だから持っているとかいないとか、そういうことではなかったんです。

 

最初からその中にいるし、ずっとその中にいた。

 

私が、形のある愛が欲しい と嘆き叫んでいるときも、その中にいたんですね。

 

私の中が怒りでいっぱいのときでさえ、その中にいました。ほんとうの愛の中にいたんです。

 

ずっと私とともに在ったわけです。それとともに在ることしかできないのです。

 

誰かにもらったり、あげたりできるものではなかったんです。

 

気づくことができなかった だけでした。

 

観ていなかった だけでした。

 

なのでそれに気づいたとき 観えたときを、目覚め と言う言い方をするのかも知れませんね。

 

 

読んで頂きありがとうございます

 

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