自分のほんとうの本質が『意識』で在ると分からないうちは、まことの意味での『愛』は分からないと感じます。
分からないため 男女の恋愛を、『まことの愛』だと思っている期間が誰にでもあります。
ですが、男女の愛が『まことの愛』でないことは、さすがに30代後半にもなれば 薄々気づいてくるものではないでしょか。
そうやって薄々気づくのが一般の流れですが、そうでない人も中にはいます。
いつまでも恋愛の中身が何であるのかに気づいておらず、これを『まことの愛』だと思っていると後々問題です。ただし男女の愛はまことの愛でないからニセモノだと言っているのはありませんので誤解のないようにお願いしますね。
そして私はノンデュアリティ・二つでないものを伝えるとき、それを『いのち』とか『愛』とか例えますが、その愛はもちろんこの男女の愛ではありません。
愛とは、わたしたちの意識、本質そのもののことを言っています。
一方、男女の愛は、意識でもなく本質でもありませんよね?
それは感情です。
恋愛は感情です。
なので恋愛の特に初期はとても満たされた気分になるし、人生がとても素晴らしく感じるものです。 それは誰かに強く必要とされていることを感じられるからですね。 人に求められることで、自分の存在価値が高まるからです。
ですが恋愛の中身は感情なので、外側からの影響を受けてはコロコロと変化し、最初の頃と同じ感情を持ち続けるのは至難の業ですね。
男女の恋愛の愛は、相手が自分を満たしてくれる、満たされた気分でずっといたい、そのことへの執着が意識・無意識かかわらずあります。相手に要求する関係性であるために、まことの愛とはすべてが違っています。
まことの愛とは、人が人に対して持つ『感情』ではありません。
人間の概念の愛ではないので『愛する』と言っても、相手のキャラクター、個性を愛するということではありません。
そのため愛は求めるものでもないし、持っていないからと探し回るものでもありません。
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では、まことの愛の正体は?
愛が求めるものでないなら、何が愛というものなのでしょう?
自分の本質・意識・いのち を、相手の中に観ることが『愛』です。
自分の本質・意識・いのち を、自然の中に観ることが愛です。
自分の本質・意識・いのち を、世界の中に観ることが愛です。
それはまた、ほんとうの自分を知っている ということにもなりますね。
そしてその愛に気づいていない、ほんとうの自分に気づいていない人は、孤独が怖い・一人は寂しい・自分は一人ぼっちだ、と言います。
加えて、一人では何もできない、一人では自信がない、と中には「私は一人で生きていけない弱い人間です」アピールをする人がいます。でも実はそれ違うんですよね。
そういう人は、エゴから絶対に出ようとしていないだけ なんです。
本当のことを本気で知ろうとしない、本気で知れば、自分から変わりたくなります、変化したくなります。 でも自分の意見を絶対に変えたくない、変化したくないから、変化したら困るので本気で知ろうとしないんですね。
ただ傲慢なだけなんです。
え?傲慢って不思議に思いますか?
弱々し過ぎる人や謙虚過ぎる人って、実は反対に『傲慢』でもあるわけです。振り子と同じですね。片方が表面に強く出るのは、その反対にも同じだけ内側にあるからです。エゴと一体化しているので傲慢が強く出るという言い方もできます。
そういう人はまた、ほんとうの自分を知る、自分に向き合うと言いながら、「時間」ばかりをかけて延々と『悩む』ことをします。
ですが・・・
ほんとうの自分になるために、時間が必要だと思いますか?
ほんとうの自分を見つけるのに、時間が必要だと思いますか?
必要なのは時間だと本気で思いますか? 時間で解決するなら、生まれた時にはすでに世界はパラダイスじゃないですかね。
けれどいつまでたっても、私はまだほんとうの自分が分からない、知らない、理解していない、と言います。
それは本当でしょうか?
そうやっていつまでも自分の不完全さや、不安定さを口にしていることに違和を感じてほしいんですね。
それこそが、エゴから出ようとせず一体化している証しだからです。
自分のほんとうの本質が『意識』で在ると分かるには、エゴと一体化していては分かりません。
エゴから出る、ことです☆
そしてエゴから出ることに、時間など必要ありません。
読んで頂きありがとうございます。
セッションではそこが分からない、出来ないという方へ一つ一つ紐解いています(*^-^*)
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